エゼキエル 9:9。エホバが有罪宣告に「イスラエルの家」を含めたのはなぜですか。(「年代」104節)
回答 1: エホバがイスラエルの家を含めたのは,北の王国が滅びたからといって,その住民を忘れたわけではなかったからです。サマリアは紀元前740年に陥落しましたが,エホバはその後も長い間,預言者たちの音信の中で,流刑にされたイスラエル人を含め続けました。それで,エホバの有罪宣告はユダだけに限られず,古代の北の王国のイスラエル人にも及びました。
回答 2: この説明から分かるのは,北の王国のイスラエル人の利害が,なおエルサレムに代表されていたということです。2つの王国は分裂しており,サマリアもすでに征服されていましたが,エルサレムは依然として国全体にとって重要でした。それでエホバがその都市に対する裁きを告げた時,ユダだけを扱っていたのではありません。紀元前607年のエルサレムの滅びは,イスラエル国民全体に対するエホバの裁きを表していました。
回答 3: この点を理解するのに役立つのは,アッシリア軍が進攻する前に,北の王国の住民の一部が南の王国に逃げた可能性が高いということです。ですから,サマリアの陥落によって,ユダにいた北のイスラエル人が全くいなくなったわけではなかったでしょう。説明では,この移動を確実な事実ではなく可能性として述べています。大切なのは,王国が消滅した後も,エホバがそのイスラエル人を念頭に置き続けたということです。
回答 4: 年代を調べると,有罪宣告が国全体に及んだことが分かります。紀元前997年の王国の分裂から,紀元前607年のエルサレムの陥落まで390年が経過しました。その間の紀元前740年にサマリアが陥落しました。しかし,エルサレムの陥落で頂点に達した裁きは,存続していた王国だけに関係していたのではありません。エホバが預言者たちを通して言及し続けたイスラエルの家も含まれていました。
回答 5: イスラエルが含まれたのは,エルサレムで起きることが国全体に影響を与えるからでした。都市が陥落した時,国民全体の希望が消えました。ユダの住民だけの希望ではありません。説明では,真の信仰を保った少数の人たちが例外だったことも示されています。このように,エゼキエル 9章9節でイスラエルに言及されていることは,古代ユダ王国の境界を越える裁きの範囲を示しています。
今週の聖書朗読からどんな宝石を見つけましたか
エゼキエル 9章の宝石
エゼキエル 9:1 — それからその方は,私に聞こえるように大声でこう言った。「この都市を処罰する者たちよ,それぞれ破壊するための武器を持って,集まりなさい!」
コメント 1: エゼキエル 9章1節から分かるように,エホバはエルサレムの悪をいつまでも許すつもりではありませんでした。都市を処罰する命令は,悪が生み出す苦しみにエホバが無関心ではないことを思い出させます。不公正を見ても,復讐心を抱いたり各自が勝手に裁きを行おうとしたりせず,エホバの公正を信頼できます。
エゼキエル 9:2 — 見ると,北を向いている上の門の方から6人の者が,それぞれ打ち砕くための武器を持ってやって来た。彼らと共に,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者がいた。彼らは入ってきて,銅の祭壇のそばに立った。
コメント 2: エゼキエル 9章2節では,武器を持つ人たちと,インク入れを持つ人との対照が目立ちます。この細部から,幻の中で全ての人が同じ扱いを受けるわけではないことが分かります。エホバは人々を区別のない集団として見ていません。悪い環境で暮らす人について話す時,決め付けないようにしたいと思います。皆が同じ考えや態度を持っているとは限りません。
エゼキエル 9:3 — すると,ケルブの上で輝いていた,イスラエルの神の栄光が,昇って家の戸口の所に移った。その方は,亜麻布の服を着て腰に秘書官のインク入れを着けた者に呼び掛け始めた。
コメント 3: エゼキエル 9章3節は,インク入れを持つ人を呼び,これから起きる事柄を指示したのがエホバであることを示しています。行動を起こしたのはその使者自身ではありません。このことから,奉仕においてエホバの指示を尊重する大切さが分かります。熱意は価値がありますが,従順の代わりにはなりません。行動する前に,自分の好みではなく聖書の指示に沿っているかを確かめるのは賢明です。
エゼキエル 9:4 — エホバはその者に言った。「この都市,エルサレムの中を巡りなさい。そして,この都市の中で行われているあらゆる忌まわしい事柄のために嘆き悲しんでいる人たちの額に,印を付けなさい」。
コメント 4: エゼキエル 9章4節は,エルサレムで行われていた忌まわしい事柄のために苦しんでいた人たちについて述べています。彼らはそれを普通のこととは考えませんでした。娯楽に出てくる暴力や不道徳に対する自分の反応について考えさせられます。自分はそんなことをしないと言うだけでは十分ではありません。繰り返し触れることによって,エホバが悪と見なすものへの嫌悪感が弱まらないよう,感情も守る必要があります。
エゼキエル 9:5 — またその方は,私に聞こえるように他の者たちにこう言った。「彼の後に付いて都市の中を巡り,人々を討ちなさい。あなたたちの目は彼らを惜しんではならず,あなたたちは一切同情してはならない。
コメント 5: エゼキエル 9章5節には非常に厳しい命令が記されています。その文脈では,エホバはすでに悪の重大さを評価し,悪を退ける人たちが見分けられるようにしていました。ですから,事情を全て知らないかのようにエホバの決定を裁くのは正しくありません。この記述から,難しい聖書箇所には謙遜な態度で近づき,結論を出す前に文脈を調べ,エホバが私たちよりはるかに多くを知っていることを認める必要を学べます。
エゼキエル 9:6 — 老人も,若者も,乙女も,子供も,女性も,全て殺さなければならない。ただし,印がある人には近づいてはならない。私の聖なる所から始めなさい」。それで彼らは家の前にいた長老たちから始めた。
コメント 6: エゼキエル 9章6節によると,裁きは聖なる所と,神殿の前にいた長老たちから始まりました。崇拝に関係する場所にいることは,責任を問われない理由にはなりません。私にとっての教訓は,会衆でどんな責任を担っていても,忠実な行動の代わりにはならないということです。大切なのは他の人にどう見える立場かではなく,どんな人であるか,日々の決定がエホバに喜ばれるかです。
エゼキエル 9:7 — その方はさらに彼らに言った。「家を汚し,庭を死体でいっぱいにしなさい。行きなさい!」それで彼らは出ていき,都市の中で人々を討った。
コメント 7: エゼキエル 9章7節は,民の悪の結果から神殿さえ逃れられなかったことを示しています。建物が,それを使う人たちの腐敗を埋め合わせることはできません。崇拝は,集会場所や参加する活動だけではないことを思い出させられます。家族への接し方,仕事の仕方,誰も見ていない時の行動にも影響を与えるべきです。生活全体が,私たちの信仰と調和していなければなりません。
エゼキエル 9:8 — 彼らが人々を討っている間,1人残された私は,ひれ伏して叫んだ。「ああ,主権者である主エホバ!あなたはエルサレムに激しい怒りを浴びせ,イスラエルの残っている人たちを皆滅ぼされるのですか」。
コメント 8: エゼキエル 9章8節で預言者は,見ている事柄に苦しみ,エホバに訴えています。他の人の死を冷たく,あるいは喜んで見てはいません。エホバの公正を認めることは,感受性を失うことではありません。奉仕では,人を助けたいのであって,優越感を持って話したいのではありません。状況に圧倒された時には,誠実かつ深い敬意をもってエホバに心配を伝えられます。
エゼキエル 9:9 — すると,その方は言った。「イスラエルとユダの国民の過ちは非常に大きい。この土地は流血に満ち,この都市は腐敗に満ちている。彼らは,『エホバはこの土地を捨てた。エホバは見ていない』と言っている。
コメント 9: エゼキエル 9章9節は,流血と腐敗が国民の重大な過ちの一部だったことを示しています。エホバが人への接し方を非常に重視していることが分かります。崇拝を正直さや命への敬意から切り離すことはできません。この節に促され,日常の取引を吟味します。仕事で公正か,真実を語っているか,他の人の弱みに付け込んでいないかを考えます。
エゼキエル 9:9 — すると,その方は言った。「イスラエルとユダの国民の過ちは非常に大きい。この土地は流血に満ち,この都市は腐敗に満ちている。彼らは,『エホバはこの土地を捨てた。エホバは見ていない』と言っている。
コメント 10: エゼキエル 9章9節の別の点は,エホバは起きていることを見ていないという間違った考えです。その考えが都市の腐敗を助長していました。私たちにとって,すぐに結果が生じないことを神の是認と取り違えないことが教訓になります。誰にも知られない決定をする時,エホバは見ていると覚えていれば,正直に行動できます。他の人に悪事を知られないようにするのではなく,エホバを喜ばせたいと思います。
エゼキエル 9:10 — それで,私の目は彼らを惜しまず,私は同情しない。彼らに自分たちの歩みの報いを受けさせる」。
コメント 11: エゼキエル 9章10節は,処罰が受ける人たち自身の行動と関係していることを示しています。民は自分たちの悪い決定の結果をエホバのせいにできません。私も間違いをした時には責任を認めたいと思います。環境や他の人のせいにせず,自分の分を認めて正す必要があります。結果を受け入れるのは難しくても,言い訳をすると本当に変わることがさらに難しくなります。
エゼキエル 9:11 — 私が見ていると,亜麻布の服を着て腰にインク入れを着けた者が戻ってきて,「私はあなたから命じられた通りにしました」と報告した。
コメント 12: エゼキエル 9章11節は,亜麻布の服を着た人が,受けた任務を正確に果たしたという報告で終わります。仕事を受け入れただけでなく,最後まで行い,結果を報告しました。これは会衆で与えられる責任についての良い思い出させです。信頼できる人になるには,よく聞き,頼まれたことを終え,結果を伝える必要があります。難しさが生じたなら,全て解決したと思わせるより,助けを求める方がよいでしょう。
エゼキエル 10章の宝石
エゼキエル 10:1 — さらに見ていると,ケルブたちの頭上にある台座の上に,サファイアの石のようなものが現れた。それは王座のように見えた。
コメント 1: エゼキエル 10章1節は,ケルブたちの上にある王座のようなものを描写しています。裁きの幻の中で,この細部はエホバの権威に注意を向けさせます。困難な状況がエホバの主権を弱めることはありません。心配な時には問題だけでなく,自分が仕えている神についても考えられます。
エゼキエル 10:2 — 神は亜麻布の服を着た者に言った。「車輪の間,ケルブの下に入り,ケルブの間にある炭火を両手に満たし,都市の上にまき散らしなさい」。それで私が見ていると,その者は入っていった。
コメント 2: エゼキエル 10章2節で,都市の上に炭火をまく命令は,エルサレムに対する裁きの幻の一部です。これは重大な場面であり,前の章で描かれた悪を無害なものと考えることはできません。聖書の警告を聞いたなら,一時的に心配するだけでなく行動すべきです。エホバとの友情を弱めている習慣に気付いたなら,さらに害が生じるのを待たずに正すのが賢明です。
エゼキエル 10:4 — そして,エホバの栄光がケルブたちから昇って家の戸口の所に移り,家は徐々に雲で満たされ,庭はエホバの栄光の輝きで満ちた。
コメント 3: エゼキエル 10章4節は,家と庭がエホバの栄光の表れで満ちる様子を描いています。注目の中心は人間の偉大さや建物の美しさではなく,エホバご自身です。崇拝の焦点を正しく保つ助けになります。集会で良い印象を与えることを第一にするのではなく,自分のコメントと行動によって他の人がエホバを一層高く評価し,エホバに近づけるようにしたいと思います。
エゼキエル 10:5 — ケルブたちの翼の音が,外側の庭にまで聞こえた。それは全能の神の声のようだった。
コメント 4: エゼキエル 10章5節は,ケルブの翼の音を全能の神の声に例えています。その描写は圧倒的な力を伝え,畏敬の念を抱かせます。霊的な活動に慣れ過ぎると,機械的に行うことがあります。この節は,自分が誰を崇拝しているかを思い出すよう促します。祈りや研究の前にエホバの偉大さを考える時間を少し取れば,もっと注意を集中できるでしょう。
エゼキエル 10:6 — 神は亜麻布の服を着た者に,「車輪の間,ケルブの間から火を持っていきなさい」と命じ,その者は入っていって車輪のそばに立った。
コメント 5: エゼキエル 10章6節では,亜麻布の服を着た人が,命令を果たすために所定の場所に立ちます。従いたいと思っただけでなく,必要な一歩を踏み出しました。これは自分の霊的な目標について考えさせます。もっと研究したい,奉仕にもっと参加したいと思うだけでは始まりに過ぎません。時間を確保し,資料を準備し,助けを求めるなど,具体的に行動する必要があります。
エゼキエル 10:7 — ケルブの1人が,ケルブたちの間にあった火に向かって手を伸ばし,火をいくらか取って,亜麻布の服を着た者の両手に置いた。その者は火を持って出ていった。
コメント 6: エゼキエル 10章7節では,ケルブの1人が火を亜麻布の服を着た人に渡し,その人は受け取って任務を続けます。幻に関わる者たちの協力が見られます。細部に意味を付そうとしなくても,協力の価値を認められます。会衆の多くの仕事は,ある人が別の人の仕事をしやすくすることを必要とします。必要なものを時間通りに渡し,有用な情報を共有し,助けを受け入れるなら,仕事は秩序正しく進みます。
エゼキエル 10:9 — 私が見ていると,ケルブたちのそばに4つの車輪があった。それぞれのケルブのそばに1つの車輪があり,かんらん石のように光っていた。
コメント 7: エゼキエル 10章9節は,預言者が車輪の輝きを見て,かんらん石のようだと述べています。エゼキエルは動きだけでなく,見たものの美しさにも注目しました。この点は,聖書をもっと注意深く読む助けになります。急いで読むと,エホバとその栄光についての見方を豊かにする描写を見落とすかもしれません。立ち止まって場面を想像し,エホバへの感謝を深める価値があります。
エゼキエル 10:11 — 車輪は進む時,向きを変えずに4つのどの方向にも行くことができた。ケルブの頭が向いている方へ,向きを変えずに行くのである。
コメント 8: エゼキエル 10章11節は,車輪が向きを変えずに4方向のどこへでも進めたという驚くべき自由を描いています。この幻には普通の乗り物のような限界がありません。エホバの能力を,自分が想像したり行えたりすることだけで測ってはならないと教えられます。困難がどう解決するか分からない時,自分の限界を認めても,エホバにも同じ限界があると考える必要はありません。信頼するために,あらゆる詳細を前もって知る必要はないのです。
エゼキエル 10:16 — ケルブが進むと,車輪も一緒に進み,ケルブが翼を広げて地上から高く舞い上がると,車輪も向きを変えず,そのそばを離れなかった。
コメント 9: エゼキエル 10章16節は,車輪がケルブに伴い,離れなかったことを強調しています。互いに妨げ合う独立した動きではなく,調和が示されています。会衆で協力することの価値を考えさせられます。自分から進んで行うことは,他の人を考えずに行動することではありません。共同作業では,耳を傾け,意見を合わせ,各人の責任を尊重する方が,自分の方法に固執するよりはるかに役立ちます。
エゼキエル 10:17 — ケルブが止まると,車輪も止まり,ケルブが昇ると,車輪も一緒に昇った。生き物に働いている聖なる力が車輪の中にもあったからである。
コメント 10: エゼキエル 10章17節は,預言者が見た調和が,生き物と車輪の中で働く聖なる力と関係していたことを説明しています。それは単なる動きの披露ではありません。エホバの聖なる力の重要性に注意が向きます。奉仕では経験や組織が役立ちますが,自分の能力だけに頼りたいとは思いません。聖なる力を求め,エホバの言葉の導きが決定や態度に影響するようにする必要があります。
エゼキエル 10:18 — エホバの栄光は,家の戸口の所から離れ,ケルブたちの上にとどまった。
コメント 11: エゼキエル 10章18節は,エホバの栄光が家の戸口から離れ,ケルブの上にとどまったことを述べています。エルサレムの腐敗という文脈で,考えさせられる細部です。エホバとの関係を当然視してはなりません。私にとって,長年奉仕してきたことは,現在の忠実さの代わりにならないという思い出させです。以前にしたことに安住せず,今日の決定によってエホバとの友情を守り続けたいと思います。
エゼキエル 10:20 — これは,私がケバル川で,イスラエルの神の下にいるのを見た生き物であり,私はそれがケルブであることを知った。
コメント 12: エゼキエル 10章20節では,預言者がケバル川のそばで見た生き物を思い出し,それがケルブだと理解しました。今見ているものを以前見たものと結び付けたので,よりよく理解できました。辛抱強く研究するよう励まされます。教訓を得るためにいつも新しいものを探す必要はありません。聖書がすでに示している事柄を復習し,関連付ける必要がある場合もあります。また,本文が説明していることと,単なる推測を区別するのも大切です。
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