エゼキエル 7章19節。 この預言はどのように実現しますか。そこから何を学べますか。(「ものみの塔」24.09 11ページ14節)
エゼキエル 7:19 — 人々は自分たちの銀を通りに投げ捨て,自分たちの金を憎む。その銀も金も,エホバの激怒の日に彼らを救うことはできない。彼らは満足できず,自分たちの腹を満たすこともできない。それは彼らにとって過ちのもととなったからである。
回答 1: この預言は、貨幣が全く価値を持たなくなる大患難の間に実現します。人々は、自分の富ではエホバの怒りから救われないことを理解するでしょう。このことから、所有物が与える安心には限界があると分かります。今はお金で必要な物を賄えますが、エホバへの信頼に取って代わることはできません。終わりはいつ来てもおかしくないという強い信仰があれば、物質主義から守られます。
回答 2: 大患難の間、富に頼る人たちを富が救うことはありません。ですから、この預言から学べる実際的な教訓は、質素でバランスの取れた生活につながる決定をすることです。ますます多くのお金を稼ぐことに集中するのではなく、自分の決定がエホバとの関係にどう影響するかを考えるのがよいでしょう。問題は、どれほど稼げるかだけではありません。計画が、お金よりもエホバを信頼していることを示しているかどうかです。
回答 3: この預言は、銀や金が何の保護にもならない時が来ることを示しています。段落が強調している具体的な教訓は、不必要な借金をする誘惑に抵抗することです。物質的な物が将来を保証しないと分かっているなら、それをもっと得るために生活を複雑にする意味はありません。借金をする前に、それが本当の必要から出ているのか、それとももっと欲しいという願いから出ているのかを自問できます。
回答 4: エゼキエル 7章19節は、所有物にどれほどの時間を費やしているかを考える助けにもなります。大患難の時に所有物は私たちを救えないので、今それが注意を全て奪うままにするのは賢明ではありません。段落は、物質的な事柄を世話することに夢中になり、他のことをする時間がなくなる危険を警告しています。購入に使うお金だけでなく、維持に必要な時間も見直し、もっとバランスの取れた生活ができるよう調整できます。
回答 5: 別の教訓は、所有物に対する気持ちに注意する必要があるということです。借金を避けるだけでなく、持ち物に過度に執着することも避けなければなりません。終わりが近づくにつれて、エホバと所有物のどちらをより信頼しているかを示す必要が生じるでしょう。大患難の間、富は誰も救わないと知っているなら、今から、快適な生活を守ることに左右されないエホバへの信頼を培えます。
今週の聖書朗読からどんな宝石を見つけましたか
エゼキエル 7章の宝石
エゼキエル 7:1 — エホバが再び私に語り掛けてこう言った。
コメント 1: エゼキエル 7章1節から、メッセージが預言者の想像ではなくエホバからのものだったことが分かります。会衆でコメントしたり宣教で話したりする時も、独創的な考えを述べることが重要なのではありません。本当に人の助けになるのは、エホバが伝えたことを忠実に伝え、聖書の教えと自分の意見を区別することです。
エゼキエル 7:3 — 今あなたに終わりが来ている。私はあなたに怒りを表し,あなたの歩みに応じた裁きを下し,あらゆる忌まわしい行いの責任を問う。
コメント 2: エゼキエル 7章3節でエホバは、人々の行いに応じて裁くと述べています。イスラエル人であることは、どんな行動をしても責任を問われないという意味ではありませんでした。これは、自分が霊的な人に見えることだけで満足せず、自分の決定を調べるよう励ましてくれます。家や職場で、また誰にも見られていない時の行動が、自分の信仰と一致しているかを考えられます。
エゼキエル 7:6 — 終わりが来る。終わりは来て,あなたに襲い掛かる。それは来る。
コメント 3: エゼキエル 7章6節では、終わりが来ることが繰り返されています。この強調から、エホバのメッセージが確実であり、真剣に受け止める必要があることが分かります。警告を何度も聞くと、慣れてしまうことがあります。しかし、繰り返されても重要性が失われるわけではありません。この聖句は、エホバが望んでいる生き方をするために必要だと分かっている変化を、先延ばしにしないよう励ましてくれます。
エゼキエル 7:10 — その日が来る!それは来る!あなたの番が来た。つえに花が咲き,うぬぼれが芽生えた。
コメント 4: エゼキエル 7章10節は、うぬぼれが芽生えたと述べています。この表現から、誇りを自分の中に根付かせないことの大切さを考えさせられます。実際的な方法の1つは、助言を受けた時の自分の反応に注意することです。すぐに言い訳したり、どんな指摘も退けたりするなら、自分の態度を調べる必要があります。謙遜さを培えば、悪い傾向が大きな問題になる前に矯正を受け入れられます。
エゼキエル 7:11 — 暴力が高じて邪悪のつえとなった。人々も,彼らの富も,群衆も,名声も残らない。
コメント 5: エゼキエル 7章11節は、富も群衆も名声も人々を守らないことを示しています。名声について述べられている点が印象に残ります。他の人の評価を重視しすぎるのは簡単だからです。認められているからといって、エホバに認められているとは限りません。ですから決定する時は、それで自分がどう見られるかより、エホバの目から見て正しいかを考えたいと思います。
エゼキエル 7:14 — 人々はラッパを吹き,皆が用意を整えたが,誰も戦いに行かない。群衆全てに私の憤りが表されるからである。
コメント 6: エゼキエル 7章14節では、戦いの準備をしてもエホバの裁きから民を救えませんでした。ラッパは鳴りましたが、誰も戦いに出ませんでした。これは、エホバの決定を前にした人間の能力の限界を示しています。自分にも当てはめるなら、十分に準備することと自力に頼ることを混同したくありません。計画を立て資源を活用するのは有益ですが、エホバの言葉を聞き、その意志に沿って行動する必要に取って代わることはありません。
エゼキエル 7:16 — 生き延びて逃れた人は山々に行き,谷間にいるハトのように,それぞれ自分の過ちを嘆く。
コメント 7: エゼキエル 7章16節は、逃れた人たちがそれぞれ自分の過ちを嘆く様子を描いています。悪い行いの結果を経験して初めて、それを認めるのはとても悲しいことです。この点から、聖書によって自分の欠点に気付いた時にすぐ反応するよう励まされます。言い訳をしたり他の人の間違いを指摘したりするのではなく、自分の責任を認め、機会があるうちに必要な変化を遂げられます。
エゼキエル 7:19 — 人々は自分たちの銀を通りに投げ捨て,自分たちの金を憎む。その銀も金も,エホバの激怒の日に彼らを救うことはできない。彼らは満足できず,自分たちの腹を満たすこともできない。それは彼らにとって過ちのもととなったからである。
コメント 8: エゼキエル 7章19節では、富は民を救えなかっただけでなく、罪へ導く障害にもなっていました。このことから、お金が自分の決定にどう影響しているかを調べられます。例えば、もっと稼げる機会に不正直な行動が求められるなら、経済的な利益は霊的な危険になります。大切なのは、いくら得られるかだけでなく、それを得ることがエホバへの従順にどんな影響を与えるかです。
エゼキエル 7:20 — 彼らは美しい装飾品を誇り,それらで忌まわしい像を,汚らわしい偶像を作った。そのため,私は彼らがそれを憎むようにする。
コメント 9: エゼキエル 7章20節によると、イスラエル人は装飾品を使って偶像を作りました。美しいので大切にしていた物が、エホバの憎む行為と結び付いていたのです。このことから、物を見た目や価格だけで評価しないよう教えられます。崇拝に関係する物を持ち続ける前に、それが何を表しているかを考えるのはよいことです。美しい物、あるいは思い出の品だからといって、エホバの見方から見て適切とは限りません。
エゼキエル 7:23 — 鎖を作りなさい。この土地はゆがんだ裁きによる流血に満ち,都市は暴力に満ちているからである。
コメント 10: エゼキエル 7章23節は、流血にまみれた裁きと、都市を満たしていた暴力について述べています。エホバはこうした不公正を見ており、軽い事柄とは考えませんでした。人への接し方もエホバに対する責任の一部です。日常生活で攻撃的な態度を退け、状況を公平に判断したいと思います。訴えを支持したり意見を述べたりする前に、注意深く話を聞き、偏見を避ける必要があります。
エゼキエル 7:26 — 災難が相次いで降り掛かり,次々に知らせが届き,人々は預言者に預言を求める。祭司は律法を教えることができず,長老は助言を与えることができない。
コメント 11: エゼキエル 7章26節では、災難が相次ぐ中で人々が導きを求めますが、必要な指示を得られませんでした。この情景から、今受けられる聖書の教えの価値を認識できます。危機が生じてからエホバの助言に関心を持つのではなく、今から聖書を定期的に学び、集会で注意深く聞きたいと思います。そうすれば原則をよく知り、毎日の決定に適用できるようになります。
エゼキエル 7:27 — 王は嘆き悲しみ,長は絶望に陥り,民は恐怖で手が震える。私は彼らの行いに応じて彼らを扱い,彼らが裁いたように彼らを裁く。彼らは私がエホバであることを知らなければならなくなる』」。
コメント 12: エゼキエル 7章27節は、王も長も民も裁きの結果を受けることを示しています。社会的な立場によって、エホバの権威を免れることはできませんでした。このことから、地位で人の価値を測ったり、責任を委ねられているから不従順が許されると考えたりしないよう教えられます。会衆では全ての人に敬意を示し、重要なのは他の人の評価ではなく、エホバの前での行動だと覚えていたいと思います。
エゼキエル 8章の宝石
エゼキエル 8:3 — その方は手のようなものを伸ばし,私の髪の毛の房をつかんだ。すると,神からの幻の中で,私は聖なる力によって運ばれ,地と天の間を通ってエルサレムに連れてこられた。そこは北を向いている内側の門の入り口で,嫉妬をかき立てる偶像があった。
コメント 1: エゼキエル 8章3節は、預言者が神からの幻の中でエルサレムに運ばれたことを明らかにしています。この詳細から、正確に読むことの大切さを学べます。会話やコメントで記述を説明する前に、聖書がどのように述べているかに注意を払うのはよいことです。そうすれば詳細を付け加えず、実際に書かれていることを理解するよう他の人を助けられます。
エゼキエル 8:4 — 見ると,イスラエルの神の栄光が輝いていた。それは私が谷あいの平原で見たものに似ていた。
コメント 2: エゼキエル 8章4節で、預言者は偶像崇拝が行われている場でイスラエルの神の栄光を見ました。この対比から、その行為がどれほど不適切だったかが分かります。エホバの偉大さを考えると、崇拝を日課のように扱わずに済みます。集会の準備をしたり祈ったりする時、誰を崇拝しているかを思い出したいと思います。その敬意は態度と行動の両方に表れるはずです。
エゼキエル 8:6 — その方は言った。「人の子よ,ここでイスラエル国民が行っている,ひどく忌まわしい事柄が見えるか。そのために私は聖なる所から遠く離れている。しかし,あなたはもっとひどく忌まわしい事柄を見る」。
コメント 3: エゼキエル 8章6節は、イスラエルの忌まわしい行いがエホバを聖なる所から遠ざけたことを示しています。エホバのための場所があっても、民の行動がエホバを不快にするなら、是認を得られません。これは、集会に出席することだけでは従順の代わりにならないと教えています。王国会館で学び表明することが、決定や会話、他の人への接し方にも表れるよう、調和の取れた崇拝をしたいと思います。
エゼキエル 8:8 — その方は,「人の子よ,どうか壁の穴を掘り広げてほしい」と言った。それで壁の穴を掘り広げると,入り口が見えた。
コメント 4: エゼキエル 8章8節で、エホバは預言者に壁の穴を掘り広げるよう指示し、そこに入り口が現れました。この幻は、一見しただけでは見えない事柄があることを示しています。自分の行動を表面的に調べるだけで満足しないよう励まされます。聖書を学ぶ時、その教えによって動機も調べることができます。他の人の隠れた欠点を探すのではなく、自分に正直になるということです。
エゼキエル 8:10 — それで入っていって見ると,地面を動く生き物と忌まわしい動物のさまざまな像,イスラエル国民のあらゆる汚らわしい偶像があった。それらは周囲の壁に彫られていた。
コメント 5: エゼキエル 8章10節は、偶像崇拝に関係する像で壁がいっぱいになっていたことを述べています。それらはエホバが退ける崇拝の一部でした。この聖句から、自分の家にある物が、エホバだけを崇拝したいという願いと一致しているかを調べるよう促されます。全ての像に宗教的な用途があるわけではありません。しかし、偶像崇拝と結び付いた物なら、装飾品と見なされているとか、他の人が普通の物と考えているという理由で軽く扱うべきではありません。
エゼキエル 8:11 — それらの前にイスラエル国民の長老70人が立っており,その中にシャファンの子ヤアザヌヤもいた。それぞれが香炉を持ち,香の煙が立ち上っていた。
コメント 6: エゼキエル 8章11節は、イスラエルの70人の長老が偶像崇拝に加わっていたことを示しています。大勢で、しかも目立つ立場にいたとしても、行動が正当になるわけではありません。このことから、行う人の数や影響力だけで正邪を決めないよう教えられます。誰かに特定の行動を勧められた時は、考えずに従うのではなく、その提案をエホバの基準と比べる必要があります。
エゼキエル 8:12 — その方は言った。「人の子よ,イスラエル国民の長老たちが暗闇の中で,それぞれ自分の偶像が飾られている奥の部屋で行っていることが見えるか。彼らは,『エホバは私たちを見ていない。エホバはこの土地を捨てた』と言っている」。
コメント 7: エゼキエル 8章12節では、長老たちは暗闇で行動し、エホバには見えないと思っていました。しかしエホバは、彼らのしていることをエゼキエルに示しました。私たちの廉潔さは、誰かに見られているかどうかに左右されてはなりません。画面で何を見るか、秘密の会話、自分一人の時の決定も重要です。エホバが行動を知っていることを思い出すと、公の場でも一人の時でも同じ人でいられます。
エゼキエル 8:13 — その方は続けて,「あなたは,彼らが行っている,もっとひどく忌まわしい事柄を見る」と言った。
コメント 8: エゼキエル 8章13節で、エホバはさらにひどい行いを見せると述べています。この幻は、全ての行為が同じ程度に重大だと述べているのでも、すでに見た行為を許容しているのでもありません。このことから、「他の人はもっと悪いことをしているから、自分のことは問題ない」と正当化しないよう注意できます。もっと重大な行為と比べても、自分の決定が正しくなるわけではありません。エホバの基準で評価し、喜ばれないことを正す必要があります。
エゼキエル 8:14 — そして,私をエホバの家の北の門の入り口に連れてきた。見ると,女性たちが座っていて,タンムズという神のために泣いていた。
コメント 9: エゼキエル 8章14節は、エホバの家の入り口で女性たちが神タンムズのために泣いていたことを述べています。感情が強かったからといって、その崇拝がエホバに受け入れられるわけではありません。このことから、宗教的な感情だけで行為の正しさを判断できないと分かります。習慣を評価する時、人を感動させるか、誠実に行われているかだけでなく、聖書に沿っているかを確かめなければなりません。
エゼキエル 8:16 — そして,私をエホバの家の内側の庭に連れてきた。すると,エホバの神殿の入り口で,玄関と祭壇の間で,25人ほどの男性がエホバの神殿に背を向け,顔を東に向けて,東にある太陽にひれ伏していた。
コメント 10: エゼキエル 8章16節には、エホバの神殿に背を向けて太陽にひれ伏す男性たちの印象的な場面が出てきます。彼らは、エホバに捧げるべき崇拝を創造物に与えていました。これは、創造物を称賛することと崇拝することは違うと教えています。その美しさを楽しみ、そこから学ぶことはできますが、感謝と崇拝は創造者に向けなければなりません。自然の要素に人生を導く力があると考えてはなりません。
エゼキエル 8:17 — その方は言った。「人の子よ,これが見えるか。ユダ国民にとって,こうした忌まわしい事柄を行い,この土地を暴力で満たし,私を怒らせ続けるのは,ささいなことなのだろうか。彼らは私の鼻に向かって枝を突き出している。
コメント 11: エゼキエル 8章17節でエホバは、民の忌まわしい行いと共に、国を満たしていた暴力について述べています。このことから、崇拝と他の人への接し方を切り離すことはできないと分かります。宗教的な行いに注意していても、残酷または攻撃的に振る舞うことは正当化されません。特に家では本当の自分が表れるので、この教訓を適用したいと思います。敬意を込めて聞き、反応を抑え、意見が合わない時に傷つける言葉を使わないようにします。
エゼキエル 8:18 — それで私は激しい怒りのうちに行動する。私の目は彼らを惜しまず,私は同情しない。彼らが私の耳に向かって大声で叫んでも,私は聞かない」。
コメント 12: エゼキエル 8章18節は、民の大声の叫びによっても、エホバが忌まわしい行いを見過ごすことはないと示しています。この章で述べられた行いの後では、しつこく願えば結果を取り消してもらえるとは考えられません。このことから、祈りは必要な変化の代わりにならないと分かります。間違ったことをしていると気付いたなら、エホバに助けを求めるだけでなく、行動しなければなりません。願いに、従いたいという誠実な気持ちを伴わせたいと思います。
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