エゼキエル 18:22の注釈。エホバが人を許す時,その人の罪をもう覚えていないとはどういう意味ですか。(塔12 7/1 18ページ5-7節)
エゼキエル 18:22 — その人は,犯したどの違反についても責められることはない。正しいことを行ったために生き続ける』。
回答 1: 鍵となるのは,「覚える」という言葉の聖書的な意味です。ヘブライ語のこの言葉は,過去のことを思い出すだけでなく,それに関して行動することも含みます。それで,エホバが許して罪を覚えないとは,悔い改めた人のその罪を理由にして行動しないという意味です。記憶を失うことではなく,許した罪をエホバがどのように扱うかを述べています。
回答 2: 具体的には,エホバは悔い改めた罪人を,すでに許した過ちのことで再び責めません。その過ちは,後で本人を責めるために保留されるわけではありません。ですから,「覚えない」には非常に実際的な意味があります。エホバは,許した事柄を再び告発の理由として持ち出しません。このことから,エホバの許しは単なる宣言ではなく,その人をどのように扱うかを決めるものだと分かります。
回答 3: もう1つの面は処罰です。エホバは,悔い改めた人を,許した罪のことで再び処罰しません。この説明では,記憶と行動が密接に結び付けられています。過ちを覚えているなら,それを犯した人に対して措置を取ることになるかもしれません。しかしこの場合,エホバはそうしないと保証しています。ですから,この表現は単に何を覚えているかではなく,その罪のことで処罰するような行動を取らないことを意味します。
回答 4: この説明が当てはまるのは,悔い改めた罪人であり,悪いことを続けたいと思っている人ではありません。エゼキエル 18章22節の文脈では,その人は罪を捨て,正しい行いを始めています。エホバは,以前の罪をその人を有罪とする根拠にしません。ですから,罪を覚えないとは,その行いを是認することではなく,歩み方を変えた人を許すことです。
回答 5: エゼキエル 18章22節は,その許しの範囲も示しています。許された違反は1つも,悔い改めた人を責める根拠として考慮されません。エホバは,後で請求するために一部を取っておくこともありません。この節は,以前の罪と現在の正しい歩みを対比しています。それで,エホバがもう覚えないと言われているのは,許された罪が,その人に対する裁きの根拠であり続けないことを強調するためです。
今週の聖書朗読からどんな宝石を見つけましたか
エゼキエル 17章の宝石
エゼキエル 17:2 — 「人の子よ,イスラエル国民に関して謎を掛け,例えを語りなさい。
コメント 1: エゼキエル 17章2節で,エホバは預言者に例えを使って教えるよう求めました。聖書の真理を説明する時,比較がどれほど役立つかを思い起こさせられます。宣教では,簡単な例えが関心を引き,教えを覚えやすくすることがあります。大切なのは,例えが要点を明確にし,注意をそらさないことです。
エゼキエル 17:8 — この木はすでに,豊かな水のほとりにある良い畑に植えられていた。枝を張って実を結び,立派なブドウの木になるようにである」』。
コメント 2: エゼキエル 17章8節によると,そのブドウの木はすでに,良い土地と十分な水に恵まれていました。実を結ぶために必要な条件が欠けていたわけではありません。このことから,自分が受けている霊的な助けを評価し,進歩するにはいつも別の状況が必要だと考えないようにしたいと思います。聖書朗読,集会,兄弟たちからの励ましを十分に活用しているか自問できます。助けに感謝するとは,それを用いることでもあります。
エゼキエル 17:12 — 「どうか反逆的な民に言ってほしい。『あなたたちはこれらのことが何を意味するか分からないのか』。こう言いなさい。『バビロンの王がエルサレムに来て,王と高官たちを捕らえ,バビロンに連れていった。
コメント 3: エゼキエル 17章12節で,エホバは例えを説明せずに終わらせませんでした。バビロンの王と,その王がエルサレムで行ったことを明らかにしています。聖書のイメージに意味を当てはめる前に,聖書自身の説明を探すべきだと分かります。研究したり注解を準備したりする時には,文脈を注意深く読むのがよいでしょう。印象的な説明が必ず正しいとは限りません。大切なのは,その聖句に裏付けられていることです。
エゼキエル 17:14 — それは,その王国を弱めて立ち上がれないようにし,契約を守ることによってのみ存続できるようにするためだった。
コメント 4: エゼキエル 17章14節は,王国が,より低い立場に置かれていても,契約を守るなら存続できたことを示しています。その制限を受け入れなかったことが,悲惨な決定につながりました。個人的には,目立たない立場でも忠実に行動できると学べます。状況や責任が変わっても,引き続き役立つことができます。どうしても注目を集めようとする必要はありません。今与えられている務めをよく果たせばよいのです。
エゼキエル 17:15 — しかし,ユダの王はついにバビロンの王に反逆してエジプトに使者を送り,馬と大軍を得ようとした。彼は成功するだろうか。このようなことをしている者が,処罰を免れられるだろうか。契約を破っておきながら,逃れられるだろうか』。
コメント 5: エゼキエル 17章15節で,王はエジプトに馬と軍隊を求めましたが,それは契約を破ることを意味しました。期待した助けが得られるからといって,その決定が正しいことにはなりません。機会を評価する時,利点だけを考えてはいけません。それを受け入れるなら約束を破ることにならないか,聖書の原則を無視することにならないかも考える必要があります。見かけ上の益は,不忠実な行動を正当化しません。
エゼキエル 17:17 — ファラオの大勢の兵から成る大軍は,全く戦いの役に立たない。攻めるための土塁が築かれ,包囲壁が建てられて,多くの命が奪われる。
コメント 6: エゼキエル 17章17節は,ファラオの大軍でさえ王が期待した助けを与えられなかったことを示しています。安全を保証するように見えたものも,不十分でした。恐れを感じる時,どこに信頼を置いているかを考えさせられます。物質的な資源や人間の助けには限界があります。ですから,問題に実際的な対策を講じるとしても,エホバとの関係やその原則への従順より重きを置かないようにしたいと思います。
エゼキエル 17:18 — 彼は誓いを軽んじ,契約を破った。約束しておきながらこれらのことを行ったので,逃れられない」』。
コメント 7: エゼキエル 17章18節は,王が約束したのに契約を破ったことを強調しています。エホバはそれを小さな問題とは見ませんでした。何かを約束する前には慎重に考え,約束した後は忠実でありたいと思います。家族,仕事,会衆では,他の人が私たちの言葉を頼りに予定を立てます。約束を守ることは,その人たちへの敬意を示し,信頼してもらう助けになります。
エゼキエル 17:19 — 『それで,主権者である主エホバはこう言う。「生きている私自身に懸けて誓う。私は彼に,私への誓いを軽んじて私との契約を破ったことの報いを受けさせる。
コメント 8: エゼキエル 17章19節によると,エホバはその誓いと契約をご自分に対するものと見なしました。ですから,それを破ることは支配者同士だけの問題ではなく,エホバへの不敬でもありました。この点から,他の人に対する自分の行動には霊的な面があると分かります。崇拝と日常の正直さを切り離すことはできません。義務を果たす方法も,エホバへの敬意とその是認をどれほど大切にしているかを示します。
エゼキエル 17:21 — 彼の軍隊から逃げた者は一人残らず剣によって倒れ,残っている人はあらゆる方向に散らされる。あなたたちは,私エホバが語ったことを知らなければならなくなる」』。
コメント 9: エゼキエル 17章21節では,反逆の結果が軍隊にも及びました。ある者は死に,ほかの者は散らされました。責任を持つ人の決定が,多くの人に影響することを思い起こさせられます。行動する前に,自分が得たいものだけでなく,決定が自分に頼る人たちにどう影響するかを考えるべきです。彼らの幸福を考えるなら,衝動的または利己的な決定を抑えられるでしょう。
エゼキエル 17:22 — 『主権者である主エホバはこう言う。「私は,高い杉の木の頂から若枝を取って植える。小枝の一番上から柔らかい若枝を取り,高大な山の上に植える。
コメント 10: エゼキエル 17章22節で,メッセージの調子が変わります。不忠実の結果を告げた後,エホバはご自身が若枝を取り,植えると約束します。主導権が支配者の計画ではなくエホバにあることに注目できます。人間の過ちがエホバの目的の達成を妨げることはないという確信が強まります。状況が行き詰まっているように見えても,エホバの能力を私たちの限られた可能性で測るべきではありません。
エゼキエル 17:23 — イスラエルの高い山にそれを植える。それは枝を伸ばし,実を結び,立派な杉の木になる。あらゆる種類の鳥がその木の下に,枝葉の陰にすむ。
コメント 11: エゼキエル 17章23節で,エホバが植える木は成長して実を結ぶだけでなく,多くの鳥に陰と住みかを与えます。それは,他の人にも益を与える成長のイメージです。霊的に進歩して何をしたいのかを考えさせられます。認められることではなく,励まし,耳を傾け,助ける人になることを目指すべきです。周りの人も益を受ける時,私たちの進歩ははるかに有用になります。
エゼキエル 17:24 — そして野の全ての木は,私エホバが高い木を低くし,低い木を高くしたことを知らなければならなくなる。また,私は青々とした木を枯れさせ,枯れた木に花を咲かせた。私エホバが語り,これを行ったのである」』」。
コメント 12: エゼキエル 17章24節は,エホバが高い木を低くし,枯れた木を花咲かせる方であることを示しています。見かけはエホバの力を制限しません。良い状況にある時には謙遜であるよう教えられ,弱く重要でないと感じる時には励まされます。さらにエホバは,語ったことを実行すると保証しています。今の見た目ではなく,エホバの言葉の信頼性に確信を置けます。
エゼキエル 18章の宝石
エゼキエル 18:4 — 全ての命は私のものである。父の命も子の命も,私のものである。罪を犯す人は,死ぬことになる。
コメント 1: エゼキエル 18章4節は,魂が死ぬことを示しています。ですから,この節は魂を不滅のものとはしていません。また,父も子もエホバのものであることを示しています。私たちの命がエホバの手中にあり,一人一人が自分の行動についてエホバに責任を負うことを思い起こさせられます。
エゼキエル 18:6 — その人は,山の上で偶像に犠牲として捧げられた物を食べず,イスラエル国民の汚らわしい偶像に頼ろうとせず,隣人の妻を汚したり月経中の女性と関係を持ったりしない。
コメント 2: エゼキエル 18章6節の正しい人の説明には,偶像崇拝を退け,他人の結婚を尊重することが含まれています。エホバへの忠実さは,公に崇拝する時だけでなく,道徳的な行動にも及ぶと分かります。不適切になり得る関係には明確な境界を設けることができます。結婚を尊重するには,姦淫を避けるだけでなく,姦淫につながりかねない感情を育てないことも必要です。
エゼキエル 18:7 — 誰をも不当に扱わず,お金を貸した相手に担保を返し,誰からも物を奪わず,飢えている人に食べ物を与え,裸の人に服を着せる。
コメント 3: エゼキエル 18章7節は,正しい人を,害を加えない人としてだけでなく,食物を分け与え,必要な人に衣服を与える人として描いています。善良さには自分から行動することが必要だと分かります。誰にも害を与えていないと言うだけでなく,具体的な必要に気付き,それを和らげるために行動できます。簡単で目立たない援助が,多くの心配の言葉より深い関心を示すこともあります。
エゼキエル 18:8 — 利息を取ったり高利で貸したりせず,不公正なことを行わず,争っている人たちを正しく公正に裁く。
コメント 4: エゼキエル 18章8節で,エホバは2人の間の問題が真に公正に解決されることを重視しています。公正であるとは,自分が好感を持つ人に味方する以上のことです。意見の相違を聞く時,結論を急がず,事実を全て知っているわけではないと認めるべきです。家族や会衆では,不公平や不完全な情報に基づく発言によって問題を悪化させないために,公平さが役立ちます。
エゼキエル 18:9 — 忠実に行動できるように,私の法令に従って歩み続け,私の法規を守り続ける。そのような人は正しい人であり,必ず生き続ける』と,主権者である主エホバは宣言する。
コメント 5: エゼキエル 18章9節は,正義を,エホバの規準に導かれた忠実で一貫した行動と結び付けています。正しくない生き方を,1度の善行で埋め合わせることではありません。誰にも見られていない時も,日常の事柄で従順の習慣を培いたいと思います。忠実さは多くの小さな決定に表れ,やがてエホバの指示が生活でどれほど重要かを明らかにします。
エゼキエル 18:14 — 一方,ある人に息子が生まれ,その息子は父親が犯したあらゆる罪を見るものの,自分はそのようなことを行わないとする。
コメント 6: エゼキエル 18章14節は,父親の罪を見ても,それをまねしない息子について述べています。悪い手本に囲まれて育った人にとって,とても励みになります。見てきたことは影響を与えますが,それを繰り返すよう強制するものではありません。悪い行動を認め,別の道を選べます。この節は,家族の背景だけで人がどうなるかを決め付けてはならないことも思い出させます。
エゼキエル 18:20 — 罪を犯す人が死ぬのである。子が父の罪を負うことはなく,父が子の罪を負うこともない。正しいことをして報われるのは正しい人自身であり,悪いことをして処罰されるのは悪い人自身である。
コメント 7: エゼキエル 18章20節で,エホバは父も子も互いの罪の責任を負わないことを明らかにしています。裁きは個人的なものです。家族の行動のために苦しむことと,自分がその罪の責任を負うことを区別できます。家族の良い評判が自分の従順の代わりになるわけでもありません。エホバは単に人間関係を見るのではなく,私自身の行動を考慮します。
エゼキエル 18:21 — もし悪い人が,自分が犯した全ての罪から離れ,私の法令を守り,公正で正しいことを行うなら,その人は必ず生き続ける。死ぬことはない。
コメント 8: エゼキエル 18章21節は,悔い改めに罪を捨て,正しいことを始めることが含まれると示しています。起きたことを後悔するだけではありません。この節は,自分の変化を正直に調べる助けになります。間違った行動をやめ,エホバに喜ばれる行動に置き換えているでしょうか。希望も与えられます。悪い行いをした人も,その道を歩み続ける必要はなく,エホバはその人が実際に変化したことを考慮します。
エゼキエル 18:23 — 主権者である主エホバはこう宣言する。『私は,悪い人の死を少しでも喜ぶだろうか。かえって,その人が悪い行いをやめて生き続けることを喜ぶのではないか。
コメント 9: エゼキエル 18章23節で,エホバは悪い人の死を喜ばず,その人が変化して生き続けることを望むと説明しています。警告の背後にある憐れみが分かります。宣教では,その同じ態度を示したいと思います。人を有罪としたり,自分が優れていることを示したりするためではなく,エホバを知ってほしいので話します。エホバの願いを覚えているなら,より辛抱強く,真の関心を持って話せます。
エゼキエル 18:24 — 正しい人が,正しい行いをやめて間違ったことを行い,悪い人がするようなあらゆる忌まわしい事柄を行う場合,その人は生き続けられるだろうか。その人の正しい行いは何一つ思い出されない。その人は不忠実さと犯した罪のために死ぬ。
コメント 10: エゼキエル 18章24節は,正しい人が正しい歩みを捨てる可能性を警告しています。過去の正しい行いによって,今悪いことをするのが正当化されるわけではありません。エホバに仕えてきた年数や過去の行いに過度に頼らないようにしたいと思います。歩みを感謝しつつ,今日も霊性を守る必要があります。忠実さは蓄積された功績で,警戒を緩めてよいものではなく,保ち続ける生き方です。
エゼキエル 18:25 — あなたたちは,「エホバの行いは不公正だ」と言うだろう。イスラエル国民よ,どうか聞いてほしい。私の行いは不公正なのだろうか。あなたたちの行いが不公正なのではないか。
コメント 11: エゼキエル 18章25節で,ある人たちはエホバを不公正だと非難しましたが,エホバは自分たちの歩みを調べるよう求めました。神の決定を理解できない時,自分の見方を見直すべきだと教えられます。自分の判断が正しいと決め付けるのではなく,文脈を研究し,何をもっと理解する必要があるかを考えられます。謙遜であれば,限られた理解をエホバの公正の基準にすることなく,エホバから学べます。
エゼキエル 18:31 — 犯した全ての違反を捨て去り,新たな心と新たな精神を持つようになりなさい。イスラエル国民よ,あなたたちが死ぬようなことがあってよいだろうか』。
コメント 12: エゼキエル 18章31節は,新しい心と新しい精神を得るよう勧めています。変化は外面だけでなく,願いや態度にも及ばなければなりません。悪い習慣を正したいなら,何がそれを助長しているか,どんな動機を強めるべきかを考える必要があります。他の人に違って見えることだけが目的ではありません。エホバを喜ばせたいという誠実な願いを培い,その願いに決定を導いてもらうことが大切です。
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