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12月14日から20日の週の神の言葉の宝

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テーマ: 偶像を崇拝する人たちはエホバに大きな悲しみをもたらす

私たちが本当に誰かを愛しているなら,その人がどう感じているかを気に掛けます。明らかな侮辱を避けるだけでなく,関係を大切にし,忠節を示したいと思います。では,エホバとの関係について考えてみましょう。自分の決定がエホバにどんな影響を与えるかを考えることがありますか。エゼキエルの記述から,偶像崇拝は単に間違った崇拝の仕方ではないことが分かります。それは,私たちの神に深い悲しみをもたらす不忠実な行為です。

イスラエル人は,エホバが自分たちに何を望んでいるかを知らなかったわけではありません。律法契約に入ることを受け入れ,エホバに全き専心を示すと約束していました。つまり,崇拝の対象はエホバだけでなければなりませんでした。真の崇拝と偽りの崇拝を混ぜ合わせながら,その約束に忠実でいることはできません。しかし,やがてまさにそうするようになりました。エホバはその状況をどのように描写したでしょうか。エゼキエル 5章11節を読みましょう。

エゼキエル 5:11 — 主権者である主エホバはこう宣言する。『私は,生きている私自身に懸けて誓う。あなたが汚らわしい偶像やあらゆる忌まわしい行いによって私の聖なる所を汚したので,私はあなたを退ける。私の目はあなたを惜しまず,私は全く同情しない。

偶像をどこに持ち込んだかに注目してください。エホバの聖なる所です。崇拝のための場所が,エホバの憎む像や行いによって汚されていました。ですから,単なる個人的な好みや趣味の違いではありませんでした。忠実であると約束した方を辱めていたのです。エホバの民であることは,その行いを正当化したり,不忠実の結果から守ったりするものではありませんでした。

エホバの対応は断固としたものでした。聖なる所で行われているからといって,汚れた崇拝を受け入れるつもりはありませんでした。ここから大切なことを学べます。神に喜ばれる崇拝の種類を決めるのは私たちではありません。霊的に清いものを定めるのはエホバです。エホバを崇拝したいなら,ある宗教上の習慣が一般的であったり,長い伝統があったり,周りの人にとても魅力的に思えたりしても,エホバの基準を尊重する必要があります。

私たちはこう自問できます。「エホバの民に属していると思うだけで満足しているだろうか。それとも,自分の決定が全き専心を反映しているかを確かめているだろうか」。この教訓は,イスラエル人を見下すことではありません。彼らの例から,謙遜に自分を調べるよう促されます。エホバとの関係は,過去に何を言ったかだけで保てるものではなく,今忠実であることが必要です。しかしこの記述は,破った規準の重大さだけでなく,エホバの気持ちについても教えてくれます。

偶像崇拝に対する判決を聞くと,処罰だけに注目するかもしれません。しかしエホバは,その行いが自分にとって何を意味したかも説明しました。エホバは,民の決定を無関心に見ていたわけではありません。イスラエル人の不忠実は,愛と忠節に基づくはずだった関係に影響を与えました。生き残った人たちは何を認めるようになるでしょうか。エゼキエル 6章9節を読みましょう。

エゼキエル 6:9 — 逃れた人たちは,捕虜として連れていかれる国々で私を思い出し,私を悲嘆させたことを思い知る。私から離れていった彼らの不忠実な心と,汚らわしい偶像を慕って見続ける目のゆえに,私は悲嘆したのである。彼らは自分たちが行ったあらゆる悪い事柄や忌まわしい事柄を恥じ,嫌悪するようになる。

エホバは問題が心にあることを示しました。民はエホバから離れ,偶像に心を向けていました。偽りの崇拝は心の中の不忠実さを表していたのです。それでエホバは深く悲しみました。そのイスラエル人たちはやがて恥じ,自分たちの行いを憎むようになります。自分たちが苦しい結果を招いただけでなく,愛すべき神の気持ちを傷つけたことを理解するのです。

この聖句から,エホバについていっそうよく知ることができます。エホバは感情を持たない無機質な力ではありません。霊者であり,生きている神です。ですから,私たちの行いを気に掛け,私たちの振る舞いによって悲しむことがあります。それを知ると,従順についての見方が変わります。結果を避けるために要求を満たすだけではありません。愛している方との現実の関係を大切にし,その方の気持ちをいつも考えるということです。

「これをしたら自分はどうなるだろう」と考えるのと,「これをしたらエホバはどう感じるだろう」と考えるのとの違いを思い浮かべてください。前者は自分に焦点を当て,後者はエホバとの関係を考えています。どちらの結果も注意を払うべきですが,愛があれば自分の利益を超えて考えるようになります。エホバを人格的な存在として大切にすればするほど,全き専心に取って代わるものを受け入れたくなくなります。では,日々の生活でどのように全き専心を守れるでしょうか。

エゼキエルの警告はクリスチャンにも役立ちます。偶像崇拝はイスラエル人だけの危険だったとか,像の前でひれ伏すことだけを指すと考えるのは間違いです。どんな形の偶像崇拝にも断固とした態度が必要です。霊感による命令は短く直接的です。コリント第一 10章14節を読みましょう。

コリント第一 10:14 — ですから,愛する皆さん,偶像崇拝から逃げ去ってください。

逃げるとは,危険から離れ,危険の近くにとどまる方法を探さないことです。エホバを崇拝するために像やシンボルを使うことは決してない,と考えているかもしれません。それは大切ですが,命令の意味はそれだけではありません。偶像崇拝には,生活の中で何かを第一にし,神に負う全き専心に取って代わらせることも含まれます。ですから,宗教的な習慣だけでなく,自分の優先順位も調べる必要があります。

物質的な所有物,お金,性,娯楽などがその場所を占めることがあります。危険なのは,それらがエホバより上位に立って願いや決定を支配することです。例えばお金について考えましょう。必要を満たすために働くことは,お金を崇拝することではありません。しかし,もっと得るためにエホバの求める事柄を後回しにするなら,立ち止まって優先順位を見直す必要があります。問題は持っている額だけでなく,心の中でどんな位置を占めているかです。

娯楽についても同じことが起きます。休んだり活動を楽しんだりすること自体は,それを偶像にしたという意味ではありません。しかし,その活動がますます多くの注意を奪い,それを諦めないためにエホバの崇拝を後回しにするなら,無視できないサインです。他の人も同じことをしているからと正当化するのではなく,エホバにふさわしい第一の場所を今も与えているか,正直に自問しましょう。

何が自分の考えを支配しているか,時間をどう配分しているか,何を犠牲にする覚悟があるかを調べてみましょう。何かがエホバに取って代わっているなら,偶像崇拝から逃げるには具体的な変化が必要です。限界を設け,活動を組み直し,崇拝と競合するものを手放す必要があるかもしれません。間違うことへの恐れだけでそうするのではありません。エゼキエルの教えを思い出すからです。私たちの忠節はエホバにとって大切であり,分かたれた心でエホバを悲しませたくないのです。

エホバの民の偶像崇拝は崇拝を汚し,エホバに大きな悲しみをもたらしました。この警告から,私たちもエホバとの関係を守ろうと思います。宗教的な像を避けるだけでなく,競争相手のいない忠実な心をエホバに捧げたいと思います。時間や体力や資力をどのように使うかを決める時,私たちが誰を愛しているかを思い出しましょう。エホバは私たちの全き専心を受けるにふさわしい方です。毎日,エホバが生活の中で第一の場所を占めていることを示しましょう。

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